Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

ビフォア・コロナを知らない子供達

コロナが無かった時代を僕たちは知らない。親父に聞くと「あの頃はリモートワークもなくて・・・」と長い話になるので、僕の中ではこの話を家ですることはNGだ。zoomもスカイプもなかった時代を想像するなんてできるはずがない。わざわざ「居酒屋」という酒を飲む場所に行って(赤提灯と言ってたらしい)、時間も場所も会わせて友人に会いに行く。お金も時間も使ってわざわざ人に会いに行くという感覚を僕はまだ知らない。オンラインでアバターを使ってチャットやボイスメールで会話するのが一般的な昨今で、「会う」という感覚がどうも理解できないのだ。いや、知識では知っていても体が知らないということか。あの日から学校も仕事もオンラインがメインになった。それこそ結婚相手もオンラインで探すのが主流だ。直接、人に触れ合うとしたら家族か恋人か、なんというか僕らにとって「会う」というのは距離が近すぎるのだ。


昔はパワハラやセクハラで人間関係に苦労したらしい。思うにオンライン化できなかった時代はコミュニケーションの管理をしてなかったからそんなことが起こるのだ。誰にも見られない、悟られない場所で行われる陰湿なイジメ、それらは管理するものがいないから発生される。人々のコミュニケーションを政府系AI「マキ」が管理する様になってもう何十年も経つ。人々の距離感はAIによって適切に処理される。近すぎず、遠すぎることのない距離感をAIが判断する。「挨拶が少ないです」「あの言い方は相手に悪い印象を与えますので、今度からは3パターン用意しましょう」等、適切な距離感をAIが判断してくれる。当時の都知事はこれを「コミュニケーション・ソーシャル・ディスタンス」と名付けたそうだ(ほんとかな?)初めは管理されるのにアレルギーを持つ人たちがいたけど、人間でないアルゴリズムによる管理は逆に心地よく感じ、今では水のように社会に馴染んでいる。いつの時代も老人達は変化を恐れる。


ヨーロッパでは未だにオンライン化を拒む国もあって、YouTubeを見ると驚きのコミュニケーションを見ることができる。ハグしたり握手したり(それも血の繋がってない人同志で!)、クラブでパーティーする映像なんか、人酔いしそうでクラクラした。それがいいって言う人も勿論いるけど主流とは言いがたい。


オンライン化で人々は優しくなった。人間関係の最適化が行われたからだ。その代わり他人に興味が無くなったとも言われる。どちらがいいのかは僕は判断しかねる。ただひとつ言えることは、時計の針を戻すことはできないということだ。ただし、時計の針を進めることはできる。何10年もかかると言われたオンライン化は2020年のあの時にたった半年で実用化された。もちろん、幾つもの血は流れた。つまりは飲食業の倒産と医療従事者達の死という形によって。しかし、僕たちは生きねばならない。幾重にも重なる屍の上を歩き。それがデスマーチと捉えるのか、聖戦と呼ぶのか、判断は人それぞれだろう。ただ僕はそれを希望ととらえた。