Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

物を書く男の物語

じめじめとしたハッキリしない天気の日でもう何日も外へ出ていない。小説家という職業は基本的に人に会わず部屋の中で黙々と文章を打ち込む。かれこれ、何日も人と喋っていない。人恋しいかと言われれば確かにそうだが、サラリーマン時代に比べれば嫌な上司にも会わないし、満員電車も関係ないこの生活を満足とは言えないまでも、十二分に気に入っている。社会から断絶され自分の世界に閉じこもってると、世界の境界線が曖昧になってくる。どこからが自分の世界でどこからが外部の世界なのか。つまりは自分の頭の中の話なのか、現実に起こっていることなのか判断が難しくなるのだ。先週も地震があったらしい、らしいのだがそれが小説の話なのか、世界で起きていることなのか、頭がぼんやりしてうまく判断できない。インターネットを検索してもそれらしい記事にぶつからないので、あるいは最近読んでいるアメリカ文学の小説の中の出来事かもしれない。

作業が佳境に入ってくると自分でコーヒーを入れるのも億劫になりインスタントコーヒーを飲むようになる。過剰にカフェインを摂取すると体に悪いことはわかっているのに、その無駄な行為を止めることができないのはなぜなのだろう?一種の自傷行為だと私は理解している。人は決して合理的な動物ではない。不貞行為を行い、汚職を犯し、金のために人を殺す動物だ。殺人は最もコストの悪い行為だと何かに書いてあった気がする。世の中に存在するそのほとんどの問題は殺人でもなく、金か考え方で解決することが多い。もちろんこれは一般的な考え方だ。例外も存在するし、ケースバイケースである事は否めない。


「ピーピーピー」とヤカンが湯を沸かす音を告げる。

やれやれとだれに告げるでもなくひとりごとを呟き、お湯をコーヒーカップに注ぎ、泥のような味のするコーヒーを喉に流し込んだ。まるで楽しむための時間とは言えない。


妻は外に出ているらしい。


もう何年も売れない小説を書いている。エンジニアを辞めて、専業小説家からプロに転向したが、思い描いたキャリアとは程遠い位置にいる。が、それはそれでいいやさと、諦めにも似た境地いる。それが私らしいと言えば私らしい。