Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

ある中年男性の憂鬱(前編)

言い知れぬ不安がどこから来るのか分からないでいるまま、40という年齢を迎える。社会情勢が大きく変わり「新しい生活様式」という、ほとんど冗談みたいな時代が、本当に訪れてしまった。まるでつまらない喜劇の設定のようだ。去年の常識は今年の非常識となり、そして新しい時代がどのような形になるのかまったくわからないでいた。社会や国のことを勝手に心配し気が滅入ってくる。こんなときは目の前のことに集中するしかないのだ。将来のことが不安でいまを生きることができないのは、もっとも愚かなことだ。猫はその日暮らしだ。貯金も保険も必要ない。今日を生き抜くか、それとも死ぬか。ただそれだけだ。そのように生きることができればあるいは楽なのに、と愛猫のシナモンの背中をさする。

やりたいことをやりたいのだが、それがなんだったのか忘れてしまった。若い頃は楽しいことがたくさんあったような気がする。コンピュータゲームやプラグラミング、旅行、飲み会、恋愛など、世界には美味しいもので溢れているしどんな味か想像するだけで毎日は煌びやかだった。いや、それもあるいは幻想なのかもしれない。若い頃は辛いことだってきっとあったはずだ。それを都合のいいように自分の記憶を改変できるのが、人間の強さか。

思うに家族やそれなりの立場を手に入れることで「やらなければならないこと」が増えすぎた。そこでじぶんの欲望を抑制しすぎたのかもしれない。会社にはいって、恋をして、結婚して、一戸建てを購入し、子供をもうける。それは教科書に書いてある模範的な人生だ。果たして自分が心からやりたいことなのか、それはわからない。もちろん天涯孤独であることは避けたいのだが。

ベランダから子供の遊ぶ声、学校のベルの音が聞こえる。その全てはやがて日常へと変わるだろう。今はその変化に戸惑っているだけなのだ。いずれ慣れる、フランスのオペラの一文を呟いてみた。この光景もコロナも人の死もいずれ慣れて日常へと化す。自分の肉体が消えることを考えた。人々の記憶からも無くなっていくのだろうか?せめて、子供達には自分が生きた証だけは覚えていてほしい。私の墓も何年かに一度訪れてくれるだろう。それぐらいのわがままは聞いてほしいと切に願う。

全ての創作は模倣から始まるらしい。まずは真似をしてみるか。料理だって始まりは誰かのレシピから始まる。そして徐々に崩したっていいのだ。可能性は無限にある。公園で踊るピエロだって、地方の政治家にだってなれるはずだ。自分を縛っているのは社会ではなく、あるいは自分自身かもしれない。