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オードリー

オードリー・J・ニードルはアメリカの西海岸で生まれた小説家だ。小さい頃は母親が作るパイケーキとジンジャーエールを好み、オールディーズを浴びるほど聞いた生粋のロックキッズだった。彼は古くからの文学を深く愛し、アーネスト・ヘミングウェイだとかフョードル・ドフトエフスキーが彼の友達であり、教師であった。

 

高校の時に初めて小説を書き、それが町の小さな新聞社の目に留まり、ささやかな新人賞を受賞するとになった。以来、アメリカの原風景とともに自然との共存をテーマにいくつかの作品を発表した。「風と共に」は映画化もされ10カ国に配信された。新進気鋭の作家と評されたこともあったが、残念ながら彼のピークはそれまでだった。あふれんばかり才能を持つ小説家がいる一方で、彼はどちらかというと枯れそうな泉を救って、絞り出すようになんとか作品を生み出すタイプだった。

 

あがきもがいて何年かに一冊、長編小説を発表するものの、どの作品も理解し難く、難解な作品が多かった。自分自身の事を書き過ぎ、お世辞にも読みやすいとは言い難かった。一部のファンには支持されたが、その作品は悪いことに、文脈が破綻しており、オードリー自身も何を書いているかわからない状態であった。

 

彼は酒と女に溺れて、3回の自殺未遂を繰り返した。そのたびにニュースになったが、彼の作品を熱心に買おうというファンは一人、一人と少なくなっていた。朦朧とした意識の中、オードリーはそれでも作品を出し続けていった。鬱が進行している時は、短編集やエッセイなどを、比較的精神が安定しているときは長編小説を手がけるというのが彼のスタイルだった。離婚し、豪邸も手放すことになっても彼は小説を書くことをやめなかった。なぜなら書くことは彼が生きることそのものだったからだ。彼は小説の中でのみ生きることを選んだ。何度も幻覚や幻聴を繰り返し、現実の世界と、小説の世界をごっちゃごっちゃにしていった。そうして、オードリーは54歳の誕生日に、ウォール街の高層ビルから4回目の自殺を試み、そして帰らぬ人となった。胸のポケットには大好きだった、母親のペンダントが入っていた。

 

 

彼の死は、彼の作品と同じように大した話題にもならず、小さな記事として扱われた。身寄りもいない彼のために、熱心なファンが、略式の葬式のようなものを開催した。参加者100人程度の、(そう彼の経歴にしては)小規模の寂しい葬式だった。祭壇にはリボルバーと、スコッチを飾り(彼の作品に登場する主人公の好きなものだ)、彼の愛したビーチ・ボーイズのヒット曲を流した。あるものは嘆き、あるものは彼の経歴を評価し、そしてあるものは彼を敗北者と罵倒した。悲しみと嘆きと怒りが混ざる、それは不思議な葬式だった。