Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

猿の笑い

その男の写真を見るとこちらが不安になってくる。とても奇妙な男であった。奇妙というのは、私の感想で、周りの連中は特段、特別な感情は持ち合わせなかったようである。見た目も清潔感があり、普通に職務をこなす、酒は多く飲むが、よく喋り、知人も多かったようだ。ただ私は彼の卑屈な笑顔が苦手であった。ちょうどムンクの叫び作品に出てる、あの男の叫びのような卑屈な笑いをするのであった。背は小さく、極端に痩せている。金払いはいいが、少し、荒いと言われるほど金遣いがあらい。家に帰ることも少なく、サウナやカプセルホテルで、過ごすことが多かった。とても奇妙な男であった。少なくともわたしにはそう見えた。

 


「君は何だ、随分と変わった笑い方をするね。まるで猿のようだ」

たまたま酒の席で隣になった私は、思ったことを彼に問いかけた。問いかけた後にしまった!と思うのだが後の祭りである。私はいつも考える前に余計なことを聞いてしまう。悪い癖だ。

「はあ」

曖昧な返事をするその男は、特段怒りもせず、大好きな獺祭(いい酒だ)を飲み干した。まるで他人事のように私の話を聞いている。いや、耳に入ってすらいないのかもしれない。タコとワカメの酢の物を卑しく食べる彼を見ると、続けて言いたいことが出てくる。それは湯水のように自然と沸き起こる感情であった。

「なんだか、はっきりしないんだよな。君と話してると。怒っているのか嬉しいのかよくわからん。だんだんとこちらが不安になってくる。いや、気を悪くしないで欲しいんだが。これは私の勝手な感想だがね、君はもうすこし感情を表に出した方がいい、笑うとか怒るとかもっとあってもいいだろう。なあ?」

余計なお世話だなあ、と自分でも思うが、年をとるとどうも説教くさくなる。家内には辞めなさいと言われる。自分だって辞めたいさ、しかしこれが年をとることだと、開き直っている。

「どうも感情をさらけ出すのが苦手なんですよね」

その男は重い口を開いた。こんな声をしてたのか、と始めて気づいた。ハエの羽音より聞きにくい小さな声だった。

「みなさん、怒ったり泣いたり忙しいなあ、と思います。そういうの疲れませんかね。」

語尾を荒げてそういうのを聴くと、すこしばかりイライラしてるのかもしれない。やりすきたかなあと後悔しつつ彼の話を聞く。

「別に私も感情がないわけではないです。ただ疲れるのが、嫌なだけなんです。」

 


それから彼がどうなったかはわからない。私も別の部署に異動にやり毎日の生活が忙しいと他人のことを心配する時間がなくなる。ただ、風の噂では、上司とそりが合わず辞めていったと聞いた。新橋でラーメン屋を始めたがそれもうまくいかず、いまはフラフラしているようだ。恋人もいなく結婚する予定もない、貯蓄もそんなにないのだろう。他人事ながら心配してしまうのだった。

 


一度、家まで訪ねたことがある。中野の小さなアパートまで、彼が好きな酒を持って行った。少し話がしたかったのだ。人付き合いの悪い私にしては珍しいことである。たぶん、気まぐれというやつだろう。

 


久しぶりに会う、その男は長い髭を蓄えて、昔より小さくなっているように見えた。目もおぼつかない様子で、私の目を見ている。年老いた猿だ、私は一瞬そう思ったが、目の前にいるそれは間違いなく人間であった。いや、かつて人間であったもの、と表現するほうが正しいかもしれない。

「事業が失敗しましてね、それで店を畳んだんです。家からあまり出ることもありません。」

「仕事はしてないのか?」

「貯蓄を切り崩してなんとかやってますが、まあすぐに底をつくでしょうね。どうも働く気がおきなくて。」

「働く気がしないって、先立つものがないと、将来が不安だろう。」

我ながらいかんなあと、思いつつ説教じみた話がはじまる。

「ええ、そりゃ毎日不安です。夜になると周りが静かになるでしょ?そうすると不安という闇が頭の中を覆い、死ぬこととかそういうことを考えるんです。そうすると何もする気が起きない。外に出るのも億劫になるんです。喋るのも辛い。スマートフォンを触るかテレビを見るしかやることがないんです。」

周りにはカップラーメンの食べた後やスナック菓子が散見された。どうやら自炊もしてないようだ。

「笑いもせず怒りもせず、一体自分は生きているのかとわからなくなる時があります。」

 


話を聞いてくれてありがとうございます、そう言った男の顔は、例のように卑屈な笑顔を浮かべた。いったい楽しいのか辛いのかよくわからない表情であった。いや、あるいはその両方なのかもしれない。人生とは表裏一体、泣き笑いであろう。そう思うことにした。

 


時々思うのは、あるいは私も彼のようになり得たのかもしれないなあ、とボンヤリと考えるのである。1つ歯車が掛け違えただけの話、どうしてもその考えが頭から離れないのである。

 


「私もあるいは奴のようになってたのかなあ」

「どうかしました?」

家内が不思議そうな顔でたずねた。

いや、と曖昧な顔をしながらサバの味噌煮をもそもそと口に含んだ。