Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

カリスマが死んだ日

 ミッシェルガンエレファントのチバユウスケが死んだ時、私はちょうどラーメンを食べるためにお湯を沸かしていた時だった。冬の寒い日で年の瀬ということもあり街はなんだか急いでるような気がした。

「ロックバンドのボーカルチバユウスケさんが亡くなりました」

 まるで無機質に感情もなくアナウンサーはそう告げた。あるいは気持ちを抑えたのかも知れない、彼女だってもしかしてミッシェルのライブに通っていたかもしれないのだ。だとしたらプロだと思う。事実だけを淡々と伝える、私情もなく、意見もなく、ただカリスマの死を伝える。間違いなくプロだ。

 私が若い頃はミッシェルやブランキージェットシティーハイロウズが日本のロックシーンを席巻し熱心にライブに行ったものだ。ミッシェルが解散した日に呆然となり、ゾンビのように街を彷徨っていたら、ミッシェルのTシャツを着ている若者がいて(埼玉では珍しいことだ)よっぽど声をかけようと思ったほどだ。アルバルは全て擦り切れるほど聞いた。ギタリストのアベフトシが死んだ時も同じように思ったものだ、ああ、人は死ぬんだな、と。

 もうあのしゃがれた声も美しいメロディも情緒的な歌詞を目にすることもないのだ。もちろんアーカイブされた音源で曲やパフォーマンスを体験することはできる。しかし生きたチバを見ることはないのだ、永遠に。これは確定した事実だ。

 世間は残酷に死を与える。金持ちだろうがカリスマだろうが平等に訪れるということを彼は私に教えてくれた。

 久しぶりに世界の終わりを聴きたくなった。ハイネケンを片手に、私の青春を振り返るのだ。