「私のことはビーンズと呼んで欲しいの」
エルフのその人は初対面でそう答えた。ギルドに入ったばかりのグループチャットでの話だ。
一目見て素敵だなと思わせるなにかがそのひとにはあった。不思議なことにディスプレイ越しにも気品を漂わせる雰囲気が彼女にはあるのだ。そのことを伝えると、はははと高らかに笑うのであった。どこにでもいるただの女よ、その人は言った。
今となってはその人のことを愛してたのか、それはわからない。ただある一時期にそのひとのことで頭がいっぱいになったのは事実だ。フレンドに話したら、それが恋ってことじゃないの?と言われた。
そうか...ぼくは恋してたのだ、あの人に
いまはそれを認めるしかなかった。彼女が好む装備を提供したのは事実だ。
一度だけ声を聞いたのだ。彼女の声を。
想像してたのと違っていたのを覚えている。ただ幻滅はしなかった。存在してたのだ、それが感動だった。
一緒にギルドを立ち上げたこと、
夜中までクエストを2人でしたこと、
仲間のいざこざに巻き込まれて弱音を吐いたこと、
そして夜に真円の月を見たとき「月が綺麗ですね」と思わずタイプしたこと、そしてそれを慌てて消したこと。
それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
まるで昨日の出来事のようにありありと鮮明な映像となってあらわれる。
一年三ヶ月の短い期間にぼくはそれ以外に濃密な時間を過ごしたような気がする。
MMOでは恋する相手がたった1人だけいる、みんなそのひとを探してる旅なんだ、どこかのスレッドでみた都市伝説をぼくはまだ信じている。
これが魔法なら早く解ければいいのに、なんども1人の布団でそう思った。そして魔法は解けた。ぼくはアカウントを抹消したのだった。ある暑い夏の夜のことだった。理由はもう忘れた。ギルドメンバーのいざこざに嫌気がさたとか、そういう理由だ。でも、一番の理由はあの人を、好きになり過ぎた。それが理由だ。
彼女にはそのことを伝えられないでいた。そしてそれは永遠に伝えられないであろう。真空パックしたその感情は解凍されることなくぼくのこころの奥にしまった。
2018年の8月にあるひとりのエルフのアカウントが削除された、ただそれだけのことだ。それだけのことがなぜこんなにも切ないのだろう。
もうMMOもゲームもやらない。ぼくは現実を生きると決めたから。だけどあのとき体験したことをどこか、忘れないでいたい。でなければあの一年三ヶ月が無意味なものになるような気がして。