Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

暴力と笑い

切り裂くようなするどいツッコミが走る。言葉は長すぎず短すぎずそして的確だ。スカシ、のって、最後に落とす。客も気づかないほどの技のレパートリーがわずか何ミリ秒の間に使われる。押し付けがましくなくそれでいて大胆に。喋りながら客の反応もうかがう。頭の中はフル回転だ、春日が噛みやがった!クソッ、しかしそれすらもお笑いに変える。荒削りな芸風な春日だからしょうがないが、次やったらぶっ殺す!笑いが渦のように溢れ出る。あとラスト10秒、自信のあるあのオチでとどめを決めてやる。

 


ドッ

 


それは会場を爆笑に変える原子爆弾のような渾身のボケだった。間違いない、今日の主役は俺たちオードリーだ、どうだ、これがおれらが考える笑いだ。

 


「本当に嫌いだったらお前と楽しくこんな漫才やってねえよ。」

「ありがとうございましたーーーーっ」

 


決めゼリフも噛まずに終わった!よしっ、課題はあるが合格点としてやる。漫才はやる時より終わった時の開放感が好きだ。いつの間にかお笑いと対峙することが辛くなっていた。学生の時とは違う、お笑いで生きることについて、楽しいことより辛いことの方が多くなってきた。でも、それでもお笑いを続ける。それも春日と。春日はまるでびっくり箱のように色々なものを詰め込め、それが時に花開いたり、失敗したりする。フィンスイミング、男子エアロビ、春日荘、そして東大受験、一体どこへ向かうのか本人すらわからない、わからないが彼は与えられた課題を乗り越えるために決して諦めなかった。それが視聴者に感動と共感を与えるのだった。もはや芸人ではない何かになっている。

 


時々彼が何を考えているのかわからなくなる時がある。その1つが春日荘だ。

 


ファンには馴染みの話だが、春日は売れてない時から安アパートに住んでいて、売れている今でもそれを続けている。時代の寵児となった今でも、である。一つは春日がケチだという理由があるが、それでも度を逸しているケチぶりだ。もうそれはケチという問題ではない。ファンに住む場を特定されていてもその生活を頑なに守っていた。


およそ10年間、プライベートでなしで過ごす春日の胸中を聞いてみたいという欲求はある。外出しても家にいても仕事をしてても監視される生活にどうやって耐えているのだろう。そういえばアメリカ大統領のトランプはプライベートがない生活に慣れている、とどこかで読んだことがある。容姿も似ている2人だ。もしかしたら俺はアメリカ大統領にもなれる男と仕事をしているのかもな、と想像してみた。


ふっ、と笑みがこぼれる。バカバカしい話だ。


小説家にも役者にもなれる、芸人は他の職業と実は境目は曖昧だ。哲学書と芸人、全く非なる生き方だが、実は同じようなのかもしれないな。根本的なものを見つける、という点でいえば。


外は雨が降っている。深夜1時のカフェだった。

ひとり、眠れない時は外で仕事をする。エッセイや漫才の脚本、コメント、そのたちょっとした雑務。一人暮らしの部屋はそれだけで圧迫感があり、時に孤独で押し潰れそうになる。誰も俺たちを笑ってくれない日が来るのだろうか。ある日突然。芸人は観客が笑ってくれてなんぼだ。自分が楽しければいい、というものではない。独りよがりである、と思われがちだが、どんな職業より、他者を気遣い、そして労らなければ笑いには繋がらない。人々の怒り悲しみ喜び憤り、その心の中にある本当の姿にライトを当てることで、共感を生むのだ。笑いは決して暴力ではないし、暴力であってはならないのだ。人々の心を救うのが笑いだ。誰かにとって正義で、また別の誰かにとって悪であるのなら、それは本当の笑ではないのではないだろうか、であれば俺のやってることは偽物だ。まがい物のお笑いではないだろうか。

 


そんなことをぼんやりと考えていた。