Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

サラリーマン作家

私が小説を書こうと思ったのは2018年の、冬のことである。新宿のゴールデン街で、悪い酒を飲んだ日の帰り道であった。その頃は他人と口をきくのがひどく億劫になり、一人でああでもないこうでもないと物思いにふけることが多くなってきた。家内は子育てに忙しく構ってくれない。風俗やキャバクラに行く気にもなれない。職場で話してもどうも話が噛み合わない、一人で山に登ることが多くなってきた。


人に会いたくない理由は明確だ。他人にペースを乱されるのが嫌なのだ。食べるタイミング、飲む酒、それらにいちいちケチをつけられるのが嫌でたまらない。そうすると会合も途端につまらなくなってしまう。他人は他人、自分は自分というスタンスで私はこの40年を生きてきたが、世の中には人の心に土足で踏み込む連中が多い。一度、五反田の大衆居酒屋で知人と口論になり(おそらく子育てとか仕事など取るに足らない話だ)、それ以来、懲りて、その知人とは疎遠になってしまった。仲のいい後輩であった。入社当時はよく、自分に懐き、中野や新橋に連れて行ったのもだった。


どうも自分の考えていることと相手が考えていることがひどく離れているような気がしている。人生観が違いすぎるのか、それとも私が融通が利かなくなっているのか、それはわからないでいた。自分のこととなると臆病になり、それ以上の考察・思考を止めてしまう。自分のことは自分が良く知っているようで、実はまるで知らないのである。


文具屋でB 4の原稿用紙とボールペンを買ったのはその頃である。日記を書こうと思ったのである。思ったこと聞いたこと知ったことを紙にぶつけたいと思ったのだ。他人や家内にぶつけても響かないのであれば紙にぶつけるしかない。とにかく、私の話は長い。そして他人が興味を持つものと随分離れてる気がしてならない。アイドルや芸能人、他人の不倫やスキャンダル、そういったものにどうも興味が持てない。いや、視点を変えればそういったテレビの話題も楽しめるのだろうが、どうも億劫になる。若い頃は色々なものに興味を持つことができたが、いや、年はとりたくないものである。ため息が多くなってきた。


筆を走らせるとスラスラと言葉やイメージが湧いてきた。時事や事件、その他様様なニュースのこと、読んだ本の感想、音楽や映画の話、それら普段思ってることを言語化するとあっという間に時間が過ぎていく。日記を書くのに飽きると次は私小説のようなものを書いてみた。小説というとおこがましいが、普段起きたことを膨らませ、大げさにして何かしらのストーリーを創作するのだ。これがまた愉快である。時に知り合いをイメージした人物を殺すのである。これがまた痛快であった。


私の小説は必ず人が死ぬ。そして最後に読む人を嫌な気分にさせる、そういったものが好きだった。そんなものをひとつひとつ作ってきた。