Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

日本の未来について

私は、身もふたもないことを言って申し訳ないのだが、日本の未来にはあまり興味がない。経済の成長は望めないし、少子高齢化の歯止めは止まらない。シャープは台湾の企業に買収され、東京都の最低賃金は時給額1000円を割っている。日本の未来がどうなるかはよくわからないし、語るべき資格もない。ただひとつだけ言えることは高度成長期に比べて希望が見えず、若い人にとって暮らしにくい社会になったと感じる。そういう意味で言えば若い人の心情を鑑みると申し訳ない気持ちを抱くとともに、ある意味、同情の気持ちが浮かんでくる。私が二十代の頃は、全てが自己責任で社会のせいにしてなんの努力もしてない輩を見ると腹立たしくなったし、徹底的に攻撃した。今となっては顔から火が出るほど恥ずかしいことだが、当時は真剣にそう思っていた。年をとり、物事を俯瞰で見る癖がつくと、努力できない、向上することのできない人がある一定数いることがわかってきた。例えば子供の頃から虐待を受けた人は大人になってもトラウマに縛られて社会でトラブルを起こす。つまり生まれた環境によってその人の運命はほとんど決まってしまうということだ。よくテレビでスラム街に育った子供がバスケットなり、ヒップホップのスターになったというストーリーの番組が放送されるが、あんなものはデタラメである。デタラメというのは、一部の成功者の特異な体験であって、貧困層、スラム街に育った子供が大成することはほぼないということだ。貧困は伝染する。金持ちの子供は金持ちになるし、貧困層の子供は貧困のままだ。日本でも格差社会が取り上げられて、政府が非正規雇用の対策に奮起しているが、目に見えた効果があったと聞いたことはない。今も昔も資本者達が労働者を搾取する構図は止まらない。なぜならばルールも法律も資本者や一部の成功者に都合のいいように作られ、労働者はそのルールに沿って戦わなければならないからだ。


ただ、私が言いたいのはそこで絶望する必要はないということだ。給与も上がらないし、日本も昔のようになんでも保証してくれるわけではない。だからこそこれからは自分たちの思う生き方、幸せの形を追求する時代に突入したということだ。昔は単一の価値で日本は動いていた。つまりは経済の向上である。大量消費で経済を回し、アメリカに追いつけ追い越せで働く、1991年にはトヨタ社がアメリカのGMを販売台数で抜いた。物や金で社会は溢れ、飽食の時代となり、餓死する人間はいなくなった。精神的な豊かさが失われたと言われるが、当時はそれでよかったのだ。


そして、現代—————金も物も世界的な地位も手に入れた日本だがそれだけでは幸せになれないことにようやく気がついた。人々は分断され、孤立していったからだ。端的に言えば金は手段であり、目的ではない。そもそも幸せになるために我々はこの地球に立っているのだ。よく、幸せになりたいんです、と相談されることがある。だが幸せの定義は人それぞれであるから、そういう質問を受けるたびに「それは私が教えることではなくあなたが見つけることだ」と答えてその場を白けさせる。自分で物事を考える癖、習慣をつけない限り永遠に幸せになることはできないからだ。こうなるとこの話は終わってしまうのだが、あえてヒントを与えるとしたら、一つは信頼の置ける人間関係を作ること、そして、なんでもいいから物を作ること、表現することを見つけること、それを勧めている。


世の中における犯罪のほとんど全ては孤立から起こると私は考えている。2008年に起きた秋葉原の無差別殺人を起こした加藤智大は逮捕された時に「友達が欲しかった」と語っている。この発言はおそらくは本音ではないだろうか。もし仮に本音で語り合える、一緒にいて楽しい友達なり、恋人なり、家族さえいればどんなに辛い人生でも乗り越えるような気がする。どんなに社会的に成功しても孤立すると生きていくのは辛いし、最後には破滅しかない。あるものは女に溺れ、あるものは薬漬けになり、あるものは無差別殺人を犯すだろう。つまり幸せは成功や金ではなく信頼関係から生まれる物だということだ。あなたも辛い時に大衆居酒屋で話を聞いてくれるだけで救われたことがないだろうか。


そして創作活動だ。

本を書いて世の中に出せということではない。日曜大工、自炊、裁縫、油絵、作曲、なんでもいいからクリエイティブなことをすることは心の浄化に繋がる。大事なのは人と比べることではない。賞を狙っても、それで金を儲けようとしてもいけない。あくまで自分のために、または家族のために作る。クォリティーなんてどうでもいい。心を豊かにするために物を作ること、それはあなたの幸せにささやかな助けになるだろう。


ムッラカーミ・リョウ(香港在住作家)