Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

1984/ジョージ・オーウェルを読み終えて

この歳になってようやく古典SF「1984」を読むことが出来たのは、少し誇らしい気持ちになるものである。いや、もちろん若い時にとっくに読み終えておけという気持ちもなくはない。これも全ては読書の才能(とでもいうのだろうか)がない自分の不甲斐なさではある。少し告白をすれば、この小説に挑戦したのは1度や2度ではない。何度も読もう読もうと思っては挫折し他人には読んだふりをしては背中に冷や汗をかくことが多々あった。それだけこの作品は文学にとってなくてはならない作品なのだろうし、私にとっては逃れられないもののような気がする。カント、ドフトエスキー、レイモンドチャンドラー・・・私の本棚には読んでいない本で溢れている。これらを手にすることが果たしてくるのだろうか。集中して本を読むことができるのはあと2、30年以内だと私は踏んでいる。70歳になればテレビばかり見て外に出ない爺さんになっているだろう。

世界が3つに分断された架空の世界でファシストに管理されたディストピアが本作の世界である。インターネットを予見したようなテレスクリーンと呼ばれる双方向通信可能なシステムがあらゆる場所に設置され人々は完全に管理されている(それは中国のウィグル自治区を想像させられる)。世界は平和を守るための戦争を日夜続けており、その予定調和の戦争は時に味方が敵に、敵が味方になるものであった。国は体制を維持するために戦争を続けていた。過去を改編する真理省に勤めるウィストン・スミスはある女性と出会い世界が虚像で覆わていることを知る。真実を知った主人公は、やがて政府から拘束される事を知りながらも真実を追い求めようとする。セックスを禁止された世界で主人公とその女性は情事に溺れる。やがてくる破滅に気がついていても。ついに政府に拘束された主人公は再教育と呼ばれる洗脳を受けることになる。それは共産主義ヒットラーがかつて行ったことのように。洗脳が完了して、本作は終焉を迎える。監視社会、洗脳、ホロコーストそれらが小説の中だけであると誰が言えるだろう。全ては既に始まっているのかもしれない。不正に操作させられる株価、虚偽の決算報告書、公文書の改竄、この日本で目に見える物が真実であるとだれが保証できるだろうか。と私は思うのだ。

熟れた毒リンゴ

「私は罪を犯しました。汚れた果実を食べたのです。身も心も汚れてしまいました。もう娘を抱く資格もありません」

「人は過ちを犯すものです。しかしその過ちを認めやりなおすことのできる強さをもっています」

トーマス神父はケイトの肩に手を置いた。グローブほどの大きな手にはたくましく剛毛が生えておりそれは西海岸の片田舎にある小麦畑を想起させた。

(この手で一体どれほどの女を抱いたのだろう)

ケイトは神父の右手を眺めながらふとそう思った。ちょうど街では神父に対する“ある疑惑”の噂話で持ちきりだった。夜な夜な女性信者を神父の家に招き寄せているというのであった。そこでなにが行われているかはわからない。わからないが悪い噂が流れるには格好の材料であることは間違いない。こんな田舎町では娯楽などゴシップや噂話ぐらいしかない。人間より鶏の数が多いというのがこの街での自慢話であった。噂はよりセンセーションな内容へと改変していった。大衆は真実より願望を信じる。


ステンドグラスからは西日が溢れていた。ケイトは昔の事を思い出していた。優しい母が作るシチューの匂い、頑固な父の顔、まだ元気だった飼い犬のジョン、そして憧れのマリー、その全てが懐かしかった。最後に旅行へ行ったのはいつの頃だろう。腹を抱えて笑うこともなくなった。なにを食べても感動しないのだ。最近は娼婦の香水でしか興奮することができないでいた。そういえばサキュバスは夜な夜な悪夢となって、男の精子を吸い出すと言っていた。ケイトにとって娼婦はサキュバスそのものであった。銀貨という銀貨を奪って行きついには親の貯蓄まで手を出すのであった。若い頃に借金では散々苦労した。もうあんな思いだけはしたくない。


「パンとワインがあったら貧しい人に与える、私はそんな人になりたいと思っています」

神父がふとそう話し始めた。

「人はそれを偽善と言うかもしれませんね。しかしそれは私のためでもあるのです。人の役に立つと実感した時こそ、人は幸福になれるのです」

「立派な考えだと思います。しかし、私は・・・」

ケイトが口を開けたところで神父は遮った。人に説教を邪魔されるのが酷く嫌う。この男は自分に酔っているサタンそのものであった。

「チャンスは誰でもあります。遅すぎると言うことは無いのです。変わろうと思った時に人はもう変わっています」

教会というのは片田舎にとって絶対的な存在である。政治でありコミュニティであり教育であり、またビジネスでもある。どんな色魔であろうと聖職者として認められるし、市民にとっては聖職者でなければならないのであった。矛盾を認めながら人は生きていかねばならなかった。ダブルミームと人はそれを呼んだ。平和を保つための戦争、愛を保つための浮気、平等を守るための差別など。ケイトは神父の汚れた瞳を見つめながら、そんな事をぼんやりと考えていた。

(矛盾を孕んでいるからこそ人は生きていけるのか)

ピアスとバーボン

「ぐたなぐちゅヌッポンのすりすりだよー、ぱいおつどつむかんのむひむひ!」

「ムライさん」

「は?」

「いつも思うーですけど、その呼びかけ、逆効果じゃないですか?

「そお?」

「キャバクラ、ソープじゃないんですから、うちは。ガールズバーですから、おさわり禁止なんです」

ガールズバーClaris】は西川口にある小さな店である。

ビフォア・コロナを知らない子供達

コロナが無かった時代を僕たちは知らない。親父に聞くと「あの頃はリモートワークもなくて・・・」と長い話になるので、僕の中ではこの話を家ですることはNGだ。zoomもスカイプもなかった時代を想像するなんてできるはずがない。わざわざ「居酒屋」という酒を飲む場所に行って(赤提灯と言ってたらしい)、時間も場所も会わせて友人に会いに行く。お金も時間も使ってわざわざ人に会いに行くという感覚を僕はまだ知らない。オンラインでアバターを使ってチャットやボイスメールで会話するのが一般的な昨今で、「会う」という感覚がどうも理解できないのだ。いや、知識では知っていても体が知らないということか。あの日から学校も仕事もオンラインがメインになった。それこそ結婚相手もオンラインで探すのが主流だ。直接、人に触れ合うとしたら家族か恋人か、なんというか僕らにとって「会う」というのは距離が近すぎるのだ。


昔はパワハラやセクハラで人間関係に苦労したらしい。思うにオンライン化できなかった時代はコミュニケーションの管理をしてなかったからそんなことが起こるのだ。誰にも見られない、悟られない場所で行われる陰湿なイジメ、それらは管理するものがいないから発生される。人々のコミュニケーションを政府系AI「マキ」が管理する様になってもう何十年も経つ。人々の距離感はAIによって適切に処理される。近すぎず、遠すぎることのない距離感をAIが判断する。「挨拶が少ないです」「あの言い方は相手に悪い印象を与えますので、今度からは3パターン用意しましょう」等、適切な距離感をAIが判断してくれる。当時の都知事はこれを「コミュニケーション・ソーシャル・ディスタンス」と名付けたそうだ(ほんとかな?)初めは管理されるのにアレルギーを持つ人たちがいたけど、人間でないアルゴリズムによる管理は逆に心地よく感じ、今では水のように社会に馴染んでいる。いつの時代も老人達は変化を恐れる。


ヨーロッパでは未だにオンライン化を拒む国もあって、YouTubeを見ると驚きのコミュニケーションを見ることができる。ハグしたり握手したり(それも血の繋がってない人同志で!)、クラブでパーティーする映像なんか、人酔いしそうでクラクラした。それがいいって言う人も勿論いるけど主流とは言いがたい。


オンライン化で人々は優しくなった。人間関係の最適化が行われたからだ。その代わり他人に興味が無くなったとも言われる。どちらがいいのかは僕は判断しかねる。ただひとつ言えることは、時計の針を戻すことはできないということだ。ただし、時計の針を進めることはできる。何10年もかかると言われたオンライン化は2020年のあの時にたった半年で実用化された。もちろん、幾つもの血は流れた。つまりは飲食業の倒産と医療従事者達の死という形によって。しかし、僕たちは生きねばならない。幾重にも重なる屍の上を歩き。それがデスマーチと捉えるのか、聖戦と呼ぶのか、判断は人それぞれだろう。ただ僕はそれを希望ととらえた。

夜明け前

月がやけに明るい夜であった。徳川幕府が敗れ、国は政権を巡って争い、国が疲弊していた。皆々は不安を抱えていた。しかし何処か希望(のようなもの)を感じているから不思議である。板垣の命を狙うために、藤井は胸に拳銃を忍ばせていた。上野から池袋のどこかで、板垣は下車するとふんでいた。大崎のすき焼き屋で夕飯を食べるのが奴の習慣であることは、どこの大衆居酒屋でも耳にする常識であった。

皆、政府の悪口ばかりである。誰もが政府をアメリカを罵っていた。

(自分では何もできないくせに悪口だけは一丁前だな)

藤井は卑怯者が嫌いであった。嫌悪していたと言っていい。父親からは幼少の頃より、口を酸っぱくして言われていた。「卑怯者だけにはなるな」と。

(事をなすには自らの手を汚すしかあるまい)

「ネズミがいるな」

「は?」

板垣は恐ろしく慎重な男であった。たとえ酒の席でも一合以上は飲まないと決めていたし、寝床には刀を置き、懐には常に拳銃を忍ばせるほどの徹底ぶりであった。今は桂と板垣しかいない、いないはずであったが板垣は微妙な空気の乱れを感じ取っていた。

 

(今夜はやめておくか)

藤井は音もなく去った。なあに、チャンスはいくらでも転がっている。寝床、仕事場、食堂、どこでも奴の命を狙ってやる。事を急ぐと物事がうまくいかない。40歳で思い知った人生哲学のようなものだ。

 

青梅街道をひとり、練り歩く。東京は街灯が光っていたが、西東京はがらんとしている。虫の声と闇しかない。とぼとぼと歩きながら何を考えるでもなく、いや、考えている。国家を天皇を、この国の先の行方を。しかし考えがまとまらない。ぶつぶつと断片的なアイデアしか思いつかず、それらがまったく線にならない。こんな時は昔のことを思い出すようにしていた。学生時代のとるにたらないエピソードだ。恋をしたり、蹴球(当時のサッカー)で骨を骨折したことだとか、そういうことだ。

現国の女と呼ばれた先生

放課後の掃除に声をかけられた。ケイコ先生だ。普段、生徒と喋らないくせに珍しいことだ。授業がどうだとか、友達とうまくいっているのか、とか聞いてきやがった。正直、毎日が退屈で死にそうだったので、「はあ、」と、白けた返事をしてやった。モテない高校3年生が考えることと言えば、アニメだとかゲーム、またはグラビアアイドルのことだろう。政治経済なんてくそくらえ、大人をどこか見下した目で見ていた。自分ではなにもできなくせに。いや、なにもできないからこそ、なにか攻撃する対象がほしいのかもしれない。それが細身で弱い女性教員であれば、なおさら候補に相応する。

「友達はできた?タカハシ君って弓道部だよね。

その警戒した喋り方が気に触る。胸の膨らみが目立つセーターを着ている。大きさはどれくらいか予想してみる。下着は白だろう。派手なものは避けるはずだ。黒か赤なら

緊急事態宣言は1ヶ月延長された

日本は安堵とやはりそうかという、諦めにも似たため息で包まれた。もちろんオレが直接この目で見たわけでも感じたわけでもない。そういう情景を思い浮かべただけだ。早ければ半月後には解除される区域があると国のトップは説明した。額に汗をかくでもなく淡々と読み上げられたその宣告に何人の事業者が涙を飲んだのかはわからない。中小企業に200万円、個人事業主に100万円、そして個人一人一人に10万円の給付金が支給される。返す必要のないゲンナマのその値段が高いのか低いのかは俺はわからない。ただ10万円の使い道を思案しながらカップラーメンを食っていた。10万か・・・パチスロで一瞬だな、と思った。自粛ムードで細々と営業しているパチンコ屋には行きたくない。あの喧騒とスタッフの意味のない煽りのアナウンス「じゃんじゃん出しちゃってー」「8番様大当たり開始!」それらが今は恋しい。スマートフォンのゲームしかやる事がない。散歩も三日で飽きた。家で筋トレするか(しゃくだが)仕事をするか、それしか思い付かなかった。休日に仕事をする輩を俺は嫌悪していた。人生は楽しむためにあると、何かの小説で言っていた。間違いなく、人生は楽しむためにある。苦しむためでも誰かのために生きるわけではない。自分だ、自分のためにあるのだ。酒の量が増えて、空き缶やペットボトルが増えてきた。タバコの量も増える。SNSで意味のない事を呟く。いや、この世に意味のあることなんて存在しないか。

この国のトップはペッパー君を想起させた。まるで感情のない抑揚のない声だ、我が国は、アメリカと、感謝の意を、その全ては誰かに指示されて読み上げているのが見え見えだった。野党が給付金の値段の根拠について難癖をつけた。足の引っ張り合いのプロレスを俺たちは見させられている。いや、それを望んでいるのはあるいは俺たちか。