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テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

自意識

そういえば、昔、女の子と遊びに行く時に無理して美術館へ行ったり、フランス映画を見たような気がする。学生が大人の真似事をするのだから、今思えば微笑ましいことだが、当時はデートの後にしまった!と赤面してしまうのだった。ああ、なぜ素直に動物園やらゲームセンターやら行き慣れたところに行かなかったのか、と。自意識が強い、青年時代にありがちなプライドや羞恥心が邪魔してうまく会話できなかったことを、昨日のようにありありと思だすことができる。しかし今思えばそういった、少し背伸びしたくなるあの頃を愛してあげたいと思うのだった。カッコつけたい、よく思われたいという素直な、そうピュアな心があの頃は、たしかに存在したのであった。


2歳の息子を見ているとそういうことを思い出すことが増えてくる。大人に囲まれてる時に、急に歌い出す、階段をノボる、普段食べないブロッコリーを食べようとする。じいじばあばにいいカッコしようとする、そういうピュアな心が昔はあったのだなあ、と思い出す。


当時は顔から火が出るほど恥ずかしい体験も、今となっては愛おしい思い出になるのだ。と。そうすると今ある辛いこと、楽しいこと、それら全ては意味あることなのかもしれない。幸せも不幸せも表裏一体で、どちらもなくなれば成立しないのではなかろうか、と。そういうことを息子は私に教えてくれるのである。息子は私のセンセイである。


そういえば動物園に息子と行った時に、やたらとキツネザルのことを指差していたが、あれはなんであったろうか?なにか伝えたいことがあったのかもしれないが、今となってはよくわからなくなってしまったのだった。