Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

ないものねだり

兎に角ひとは手に入らないものを欲しがる傾向にある。独身時代は伴侶が欲しいと思い、家族を持つと一人になりたいと思う。仕事を辞めて休みが欲しいと思えば、暇すぎて何か刺激が欲しいと思う。なんでも手に入れる前の瞬間がわくわくするものである。バイクを買って、乗って、改造して、北へ行ったり南に行ったり、しかし買った時の高揚感などすぐに薄れ、1年後には乗らなくなったりする。私が毎日忙しくて一人になりたいと思っていても時が過ぎれば『楽しい日々であった』と思うのだろう。仕事も育児も一生懸命にやって(もちろん当事者に楽しむ余裕など微塵もない)あの頃は忙しい時代であったと、グラスを傾け一人で物思いにふけるのだ。引退したあとに暇すぎるのも、あるいはつらいものかもしれない。大事なのはあるがままを受け入れることなのかもしれない。自分の置かれた状況、こと、その全てをありがたく受け取る。育児が忙しいのであればそれを楽しむのだ。自分にとって自然のことも、他人にとってはあるいは喉から手が出るほど欲しいものなのかもしれない。仕事があって、家があり、晩御飯が用意され、週末には子供と遊べるそんな人生を夢見て生きているひとも多いのだ。美しい女性に囲まれ、富と名誉に溺れる富裕層になる必要はないのだ。私は誰に干渉されるでもなく、ただ、静かに本が読めればそれでいい。そんなこと毎日の通勤時間でできることなのだ。家族は別として、何の関係のない誰かのことで頭を悩ませたり、自分の人生に関わってくるのは御免である。私は他人にそれほどの興味は持てない。死のうが生きようが勝手である。好きにしろ、と。山に登り、景色を眺め、知人と釣りをして、帰って酒を飲み、たまに小説を書く。誰に読ませるものでもなく、ただ自分のために。家族は健康で、金持ちと言えなくてもいくばくかの貯蓄と、健康と、車が買えるぐらいの所得を持ち、出世しなくとも自分の大好きなパソコン(なぜか私は昔からパソコンを触るのが好きであった)をいじる、向上心がないのも問題だが、欲求が深いのもまた問題である。やってもやっても、飲んでも飲んでも満足しない。買っても遊んでもつまらない。腹八分、そこそこがちょうどいいのだ。