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テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

さよならヒーロー

日曜日のコストコは平凡な家族が平凡な幸せを噛みしめるように確かめるように笑顔を作っていた。その家族それぞれが平均的な幸せと平均的な不幸せを持っているのだろう。チーズピザとコークとポテトを食べる。冷たくて平凡な味がしたがそれはなんだか正しいことをしているように思えた。家族と平凡なものを買って平凡なものを食うのだ。あと何回ピザを食って死ぬのだろう。おそらく1200ほどだろうな。平凡なピザを食うだけの平凡な人生だ。あとには何も残らない。


きっといくつもの戦争が起き、沢山のひとが世界中で死ぬのだろう。でも、それでも世界は一歩ずつ歩き続ける。時に後退しても、それでも歩みを止めない。


イチローが引退した時に全世界は彼の言葉をどう受け止めたのだろうか。アメリカ人が日本人がその他ベースボールを愛するひと全てが、彼の挑戦をその目に焼き付けた。もちろん、僕もその中の一人だ。


彼は言葉を選びながらどこかぎこちなく、しかし、丁寧に僕たちに話しかけてきた。その全てが本音で語っているように見えた。ちょうど親友に夢を語るときのように、僕にはそう写った。トップアスリートはチームやファン、そして家族、スポーサーなど様々な人の気持ちを背負って戦っているため語れること、しゃべれることは限られている。しかしその限られた制約のなかで彼は彼なりに、自分が思ったことを正直に語ってくれた。それが2019年3月21日のあの記者会見だったのだろう。どこか楽しそうな悲壮感など全くない引退記者会見だった。なんなら明日からまた試合に望むのではないか、そんな雰囲気すら漂わせていた。


でもイチロープロ野球選手生活に終止符を打つ、もうプロの世界でバットを握ることはないのだ。これは確定した事実だ。

大リーグで10年連続200本安打という記録を打ち出した天才は球界を去ることになる。僕たちが彼を見ることはもうないだろう。いや、ひょっとしたらバラエティーや解説者としてひょんと顔を出すかもしれない。ただ打席を立つときのあのルーティーンを、レーザービームと呼ばれる外野からキャッチャーへの投球を、平凡なゴロをヒットにするあの俊足を、見ることは、もうないのだ。


ヒーローは舞台を降り、そしてまた次のストーリーがきっと始まるのだ。僕はそう思っている。