Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

教育現場のリアル

人間は本来、自我というものは持ち合わせてない。環境の変化に合わせて考え方、生き方を変えていくのが人間というものです。であるから、周りの風潮に流されず自分を持つことなんて出来ないんです。例えばコーヒーという飲み物があります。日本人は好んで飲んでると言われてますが、もしかしたらどんな場所にでもあるから飲んでるのかもしれません。コンビニ、喫茶店、ファミレスいたるところにコーヒーがあり気軽に飲める。どこでも飲めるからこそ気軽に飲んで、いつのまにか好きになっている。我々は物事を選択しているように思えて、実は選択させられているのかもしれません。時代や周りの環境に合わせて変化するのが人間というものです。


自我というものはない。であるなら幼少のころに芽生えるという、自我とはなんだろうか?自分でなんでもやりたいという、あれは自我とは呼ばないのだろうか。もちろん車を買うときに赤か黒かを選ぶことはできます。それがその人の自我と言われれば、たしかに自我と呼ぶことはできるでしょう。なぜなら自らが選択したからです。しかし、突き詰めて考えるとその選択に至った経由がどこから来たのかということです。黒が人気だから黒を選んだかもしれないし、赤に特別な思いれのある環境、例えば戦隊モノのヒーローが赤だった、というのもあったかもしれません。


人々が欲しいのは、自分で決めたという事実です。他人に言われたのではなく自分で選んだ、という実感が欲しいのです。自分で判断した、という事実があれば結論が同じであってもそれは構わない。学校が人間を作ることは可能とは思えません。学校ができるのは場所の提供だけです。友達、部活、勉強それらは機会であって人生そのものではない。学校が人間を作ることができるというのならそれは人間を侮辱しています。人間性を作り、育てるのは親の責任です。その責任を学校に転化するのがそもそも間違っている。当然、親が出来ないことは色々あります。それは親友になることです。なんでも話せる親友は、人生の糧になるでしょう。だからこそ修学旅行があり学園祭があり部活がある。


もちろん、学力も高めなければならない。そしてなにより、ほんとうになによりも環境を維持すること。これが思った以上にリソースを割きます。いじめ、教師の犯罪、学校内政治、PTA、エアコンなどのインフラ、そしてマスコミ対応など、後ろ向きかもしれませんが普通のことを普通にやるだけで想像以上の労力を必要としているのが現状です。まずは今を維持する。そして、緩やかではありますが、新しいことも取り入れる。それは世間から見れば遅く見えるかもしれませんが、でも、着実に一歩ずつ進んで行く。一歩でもいいから進む、それが希望です。


(Z大学院長・東郷甚八のスピーチより)