Kaz Works

テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味があるらしい

それは自分のための表現

 自分のための表現というのはあるはずだ。魂の浄化である。もしかして自分の文章によって自分の心が救われるのかもしれない。書かねば、書くことによって心が救われるのかもしれない。心理カウンセラーは箱庭によって心を治療させる。箱庭とはLEGOブロックを想像すればいいかもしれない。家や庭を作る。自分の好きな人を集めてピクニックしたり、登山をする。あるいは擬似家族を作り出す。それによって自分自身と向き合うのだ。表現もそれに近いかも知れない。舞台、登場人物は自由自在だ。

 


 私は私だ。誰でもない、ただ唯一の私だ。同じ人間は一人としていない。日本に生まれ、埼玉に育ち、生き、働き、子供をもうけた。例え特徴なくとも妻にとっては唯一の夫であり、子供にとって唯一の父親である。離婚しない限りそれはゆるぎない。友人にとっても唯一の存在である。同じ時間を共有し、苦楽を共にした。懐かしい話を思い出して、盃を交わすのだ。それだけで十分であろう。

 

 

 

私は私なのだ。

息をして考え感じる、そのこと全てが真実である。いや、それしか真実はない。自分の中に真理があり、他者がそれを理解するのは不可能なのだ。理解させ共感させようとすることそのものが人間への冒涜である。曖昧模糊として相反する感情が入り混じり、憎み、愛し、訣別する。その矛盾こそが人間の本性だ。合理的に行動することはできない。例えできたとしても本能には逆らえない。


あるがままに生きる、例え血を流したとしても辛うじて人間であり続けるために。